2012年6月30日土曜日

こんどは「五美」

悪い例ばかり書いてきましたから、今日は良い方を探してきました。論語の中の言葉です。

人を恵んで嫌味なく、
労して怨みず
欲して貪らず
泰(ゆた)かで驕らず
威あって猛からず

これが美しい姿だそうです。こうありたいものですね。

こうなってはいけないことを書いてきましたが、今回は、こうありたいという姿を探してみました。美しいとは、何も見た目がきれいではなく、内面が素晴らしいことです。それは当たり前のことですが、心が美しいとは、自分に厳しく、人にやさしいことなのでしょうね。

周りには、確かに、この真逆の人が多いようでもあります。人間ですから、恨み妬みもあるでしょうし、手柄をひけらかし、それに見合った褒美を求める欲もあるでしょう。

この五つの「美」の境地に至るには、まだまだ修行が足りないのでしょうかね・・・

2012年6月29日金曜日

小市民万歳!!

日々の出来事でラッキーと思うことはよくありますよね。例えば、車で走っていて、珍しく信号に一回もひっかからなかったとか、遅刻すると思って駅に行ったら、列車が遅れていて、そのおかげで間に合ったとか...

小市民の喜びですよね。そんな小さなラッキーが、積み重なって幸せとは成り立っているのかもしれません。小市民って愛すべき存在ですね。

感謝。その気持ちはとても大切です。ラッキーと思ったあとは、そのことを起こしてくれたことに感謝です。感謝の繰り返しが優しさに繋がるのでしょう。

感謝の独り占めは良くないです。今度は人に分け与えてあげましょう。ラッキーのおすそ分けです。人に親切にしましょう。ラッキーと思った数だけ、人に優しくして行きましょう。それが幸せの連載です。

みんながみんな、少しでもそういう気持ちになってくれれば、素敵な世の中になるのでしょうにね。


小市民よ。胸を張って生きていきましょう!!

2012年6月28日木曜日

「五悪」というのもがあるそうです

孟子の性善説を否定している荀子の言葉に「五悪」というのがあります。彼にすれば、この五悪は盗賊よりも悪質だそうです。衆議院本会議を見ていての、昨日に続く第二弾のようですが、これも、たまたま見つけた言葉です。

 1、仕事が良くできて、心が険しいもの
 2、行が偏向して、しかも頑固なもの
 3、言うことが実は偽で、しかも口達者なもの
 4、くだらぬことばかり覚えて、しかも博識である
 5、悪勢力に附いて、しかもよく恩を売るもの

 これらはいずれ世を乱れるものとしています。

 いやはや、これもまた面白いものですな。1、2、は横わかります。ちょっと付き合いづらいですよね。い、に関しては上司につかれると部下はしんどそうですね。

 3、もよくいますね。4、は頭が痛いです。この博識と言うところが曲者なのでしょう。

 5、はたちが悪いですね。恩を売る人いますいます。これ嫌ですね。

 それにしても、昔の人は、よくいろんなことを観察して、端的な言葉で言い表しているものです。うんうんとうなずくものばかりです。

 ちょっと、ここの二日間、あまりよくない人のことを書きました。でも、それを知っておくことは非常に重要です。

 昨日、危機回避のための安全教育があって、講師の方が、犯罪者の心理を知ることで、事前回避を行おうと言っていました。その通りですね。敵を知って己を知るではないですが、犯罪者の心理を理解することは重要です。

 今回、嫌な人のことを知って、こうならないように気を付けようということで、とらえていただければ嬉しいです。自分自身も、昨日のことも含めて、こうならないように、 気を付けたいです。

2012年6月27日水曜日

衆議院本会議後の今日の言葉が面白い

安岡正篤翁の「安岡正篤一日一言」」という本の今日のページは、また面白いことを書いていますが、それが、ちょうど消費増税法案採決後の今日であることは、偶然の一致なのでしょうか。

今日、6月27日の ページには「五交」というタイトルになっています。以下、その本で紹介されている「五交」を書きます。五つの交わりですな。

1、勢交・・・勢力者に交を求める
2、賄交・・・財力ある者に交を求める
3、談交・・・能弁家に交を求める
4、窮交・・・困窮のため苦し紛れに交を求める
5、量交・・・利害を図って得な方に交を求める

とあります。なんとタイミングが良いこと。今の政治家そのもので、まさに昨日の衆議院本会議の面々を言い表していますな。いやはや実に痛快です。

もともと、吉田茂を含め、歴代大物総理の相談役であった安岡翁は、今の政治の在り様を見て、どう思われるのでしょうか。

文章はこう締めくくっています。

「(五交は)いずれも恥ずべきもので長くは続かぬが、かく挙げてくれが真の交わりというものも人世には得難いものである」

全くその通りです。サラリーマン出世街道なんてものが、戦後高度成長期には、おもしろおかしく描かれていましたが、まさに、この「五交」でした。社会での処世術とは、このようなものなのでしょうか。

これも、偶然ではなく必然なのでしょうか。

2012年6月26日火曜日

丹田に気を集中

丹田という「ツボ」があります。ちょうどおへそと性器の間ぐらいに位置しているもので、第二のチャクラとも呼ばれていますね。

 ここに神経を集中させ、ここがどっしりとするイメージを作ると、物事に集中できると言われています。

 お相撲さんが「四股」を踏みますね。体を落として、この丹田に力を入れて重心を下げるものです。四股は実に精神を集中させるには理にかなった方法だそうです。足を真横に開いて体を落とし込むだけでも、十分に精神は集中します。

 野球選手のイチロー選手が、必ず打席に立ち前には、この四股に似たポーズで、両肩を交互に中に入れるしぐさをしているかと思います。あれも、この丹田に力を込めて、打席に立つ前に、精神を集中させていると聞いています。

 国語学者の斎藤孝先生は、ものを覚えるのに良い方法は、四股を踏みながら本を読むことだそうです。両足を真横に開いて体を沈め、そのまますり足で歩き回りながら本を読むと、その内容が覚えやすくなるそうです。俳優さんで、このやり方でセリフを覚えている方がおられるとも聞いています。

 私も、セミナーの前では、見えないところで、四股の形で体重を落として丹田に気を集中させます。そうすると、自分の言葉とは思えないセリフが浮かんできて、セミナーが盛り上がることがあります。本当~っという視線が怖いですが・・・

 丹田、昔から武道でも用いられている言葉で、着に集中と言うものでは、どの世界でも通用することなのでしょう。

 「ここ」と言う時に、ぜひ試してみてください。女性の方は人前では恥ずかしいですから、トイレでこっそりとね、スカートの時は気を付けて。何を余計な心配をしているのでしょうか・・・

2012年6月25日月曜日

真剣と浮気

法然上人の言葉に、このタイトルの「真剣と浮気」についてのものがあるようです。

 真剣と浮気は正反対である。適切な例を引けば恋愛を考えるがよい、真剣に恋する女はわが恋人以外の世間の男一般は皆一向につまらない。一くねり世間の男を白眼視するようでなければ誠の恋ではないのである。

 この境地と相反するもが軽薄者です。

 無心に一人の人を信ずること、それは小児が親を頼るのと同じともいっておられます。

 ここまで言われて浮気をするとなると、それはまさに邪か鬼だと言われんばかりの迫力です。

 ある本には、恋愛は、どのような人を好きになるかは自分の人格と密接な関係があると書いてあります。自分という人物相応の相手に恋をするものだそうです。人は恋愛によって自分というものがあらわになると表現しています。

 と言うことは、恋愛において浮気をするということは、まだ自分探しをしているということなのですかね。自分探しとなると、きれいに聞こえすぎですか。

 一つの事に真剣になれることは素敵なことです。真剣と浮気、なにも恋愛の場面だけに限られた言葉ではありません。

 一生に一度、何もかも捨てて、一つの事にすべてをささげることができる、そういったことに巡り合えるということは、幸せなことなのかもしれませんね・・・

2012年6月24日日曜日

無視と感心

マザーテレサの言葉に「愛の反対は、無視、無関心」とういうのがあります。無視、無関心は、相手との関係を断ち切ることで、つながりをなくすことです。これはボランティアの世界でも語られる言葉で、少しの関心が社会を救うことはたくさんあります。

 湯浅誠さん、東京大学卒業の社会運動家で、あの派遣村の村長でも有名です。彼は、NPOを通じて、社会的弱者の救済をされていますが、東北の講演で、この言葉を使われていました。少しの関心が社会を救うというのは、実に奥が深く、実に大切なことだと感じます。

 無視、無関心は、実に生きていくには楽なのかもしれません。社会との関係を謝絶する生き方は、わずらわしさからの解放のようにも見えますが、決して、社会との関係を断ち切って生きていくことはできません。

 夫婦間で、いつしかお互いのことを気に掛けなくなってきて、髪型を変えても何もわからないという、まさに無関心の関係が多いようです。

 無視は最悪の暴力です。おそらく、殴られるよりも心は痛いと思います。言葉の暴力は、拳よりも人を傷つけますが、その言葉すらない攻撃のダメージは計り知れないでしょう。

 関心を持つと、人は人を好きになれます。だって、すごく気になりますからね。人に限らず、物事でも、関心のあることは、とことん追及していきます。ずっとかかわっていきたいという思いが出てきます。

 関心は、時間の経過が苦痛でなくなり、時間を友達にすることができます。これはすごく重要です。時間が味方となれば、その間の空間が助けとなります。時間も空間も「間」です。人間も「間」です。「間」は関心で埋まります。人と人との間をつなぐもが「関心」なのですね。

 人間関係を改善する最初の一歩は、人とのつながりの第一歩は、相手に関心を持つことからなのでしょう。

 関心か・・・なんかいい言葉ですね・・・

2012年6月23日土曜日

脳はどんどん使いましょう!!

脳は、使えば使うほどいいと聞きます。いくら使ってもくたびれないそうです。だから、つまらないことに使っていると退化してしまうそうです。

 自分としては少し難しいと思えるところに脳を使うのが良いそうです。

 大人になると、難しいことにはチャレンジしないで、できる範囲で、物事を考えようとします。その言い訳として、できないことに手を出しても人に迷惑をかけてしまうからと言うのがあります。迷惑は良くないですが、誰でも最初は初心者です。迷惑をかけるということを理由とするのは、完全に自分への言い訳です。

 子供のうちに、難しいことを教えることはいいそうです。子供の脳は活発化するそうですよ。

 大人の脳は固くなっていると言いますが、それはどうでしょうか。詰め込める量は決まっているとも言われますが、医学的にはそうかもしれませんが、精神論から言えば、単なる逃げです。

 かつて江夏豊という大投手がいました。彼は、肩を痛めていて、長い時間、投げ込めなくなっていました。当時、南海監督の野村勝也氏が江夏にしたことは、安静でも休養でもなく、ブルペンで無理やり投げさせることでした。とにかく投げ続けさせました。痛めた肩を、逆に酷使したのです。その結果が、のちの元祖リリーフエースの異名を与えられるぐらいの名投手として復活してきました。

 脳は酷使すればするほどいいそうです。大人になってはなおさらです。使わなければ退化してしまいます。どうしますか、頭が委縮して縮んで来たらみっともないですよ・・・

2012年6月21日木曜日

痛い体験・・・

足の指に腫瘍ができて、この間手術しました。レントゲンを撮ったら、骨から白いものが出ていて、それを骨腫瘍の疑いと最初に行った病院で言われて、がんセンターに入院することになりました。

 結果、良性で、腫瘍ではなく腫瘤と診断されました。患部はきれいに切除し、術後のレントゲンを撮りましたが、最初にとったレントゲンで見つかった白い突起物は残っていました。それが神経を圧迫して、時々痛みが残るようになりました。

 この指の腫瘍をずっと放ったらかしにしていたので、その腫瘍を体の一部と判断して骨が伸びてきていたようです。放っておいた結果、それを取り除いた後に、新たな痛みを伴うようになったのです。

 もっと早く切っておけば 、妙な突起はできなくて済んだのですね。まさに人生と同じです。

 厄介なことを放っておくと、後で困ることはたくさんあります。どうしても、逃げたくなることはいっぱいあります。逃げることでは何も解決しないということですね。身をもって体験しました。

 今日は私の「痛い」体験談でした・・・

2012年6月20日水曜日

聞き上手について

「聞き上手」と言われますが、どういう人のことを言うのでしょう。相手が気持ちよくなんでもしゃべってくれる環境をつくれる人のことでしょうか。

 聞き上手になるうための解説書はたくさんあります。しかし、相手がいくら多くをしゃべってくれても、それだけで何が良いことなのでしょうか。そもそも、何のために聞き上手にならなければならないのでしょうか。

 話下手だから聞き上手になるという意見もありますが、それは何の意味があるのでしょうか。人とのコミュニケーションをとるだけのテクニックだけなら、無理して人と付き合わない方がいいですよね。

 聞き上手とは、相手から、自分のためになることを聞き出す、専門知識を引き出すことではないでしょうか。つまり、相手からの情報を自分のこれからに生かしてこそ、はじめて聞き上手を目指す意味が生まれてくるのだと思います。

 相手が気持ちよくべらべらしゃっべってもらっても、聞いているだけでは疲れます。何も残りません。その内容が肝心で、それを知ることで、自分の知的欲求が満足するもよし、これからに生かせるもよしということで、はじめて人の話を聞く意味が生まれるのでしょう。そのために聞き方を勉強する、相手の専門知識を引き出すテクニックを学ぶことはよいことだと思います。

 自分が接するあらゆる人から、その専門知識や体験を聞き、わがものにすることができれば、疑似体験ができますし、多くを学べると思います。

2012年6月18日月曜日

運命と宿命

運命と宿命は違う、運命は変えられる、よく言われています。

 この言葉を体感するには、相当修行が必要なのかもしれませんが、人生あきらめないでということが根底にあるのかもしれません。

 宿命に任せていたら、人生惨憺たるものです。ところが、手を加えると、まったく別の運命が切り開かれていくのです。

 それは、放っておいたらどんな被害を生じるかもしれない水を、うまく治山治水することで、逆にどんな作物をうるおし、あるいは観光の人の目を慰め、いろんな利益をもたらすことができるのと同じことだと、ある本に書いてありました。

 つらいことが目の前に起きても、それは耐えられる人にしか来ないと言われますが、それは勘弁ですよね。 試練をありがとうと受け入れなさいとも教わったことがあります。これらは、相当の精神力が必要で、そのオンタイムでは、とてもそうは考えられないことのほうが多いような気がします。

 後から気づくこともあるでしょうし、とにかく、現時点というのは殺伐としていますからね。

 ただ、目の前の起こる悪いことを、すべて人のせいにすることはよくないと、それだけは理解できます。自分がまいた種、何らかの形で、自分にも責任の一端はあるものと思っています。それゆえに、目の前の出来事は素直に受け止めようとはする努力はします。結構きついですけどね。

 頑張れば、きっと未来は開けるものです。宿命とあきらめた時点で人生は終わりです。宿命は変えられないとすると、宿命を受け入れるしかないのですからね。でも、宿命が人生を決めるわけではない、その後の運命は生き方次第でどうにでも変わるということでしょう。

 いやはや、いろいろ解脱しないと出てこない境地ですね。

2012年6月15日金曜日

集中力

人間、そんなに物事に集中できる時間は長くはありません。専門家によってもその数値は異なり、また、個人差もあるでしょうが、せいぜい10分も集中していれば、いい方ではないでしょうか。

ところが、遊びのこととなると、これが結構持つのですよね。趣味に没頭というのもそうです。心が楽しいと思うことは長続きするようです。

勉強でも、人の話を聞く時でも、楽しく思えれば、集中力は保たれます。

サッカーの試合で、よく集中ということが言われますが、周りの状況を見て集中するのは、本当に大変です。予期せぬ出来事に備える準備は、神経がすり減る思いです。

いざという時に集中力を発揮できる人が一流なのでしょう。凡人と天才の差は、案外、ほんの一瞬の行動の違いなのかもしれません。しかし、その違いはとてつもなく大きいのかもしれません。

その人の本当の実力は、集中力の先に発揮されるのでしょう。では、その集中力を高めるにはどうすればいいのでしょうか。

それは習慣から生まれるもので、日々の努力の積み重ねから生まれるのでしょう。規則正しい生活が集中力を支えます。

そして、数分でもいいですから、物事に集中する時間を作る訓練を繰り返しましょう。これは、ヤクルトスワローズの選手兼監督であった古田敦也氏の話です。

1日数分です。ちょっと心がけて見ましょうかね•••

2012年6月12日火曜日

幸と福の違いは

同じ「さいわい」という意味で用いられる言葉でも、その意味は違うようです。「さいわい」の本質が異なるようです。そのことばは「幸福」の「幸」と「福」です。

 「幸」の文字を使う「さいわい」は、その幸いとなる原因が、自分の中にはなく、偶然的な、他より与えられた幸いを意味します。たまたまいい家庭に生まれたとか、思いがけなくうまいめぐり合わせにあたったとかだそうです。

 「福」の文字を使う「さいわい」は、その幸いとなる原因が、自分の中にある、すなわち、自分の苦心、自分の努力によって勝ち得たものです。それは、「福」という漢字に表れています。

 示偏(しめすへん)は神様のことで、「示」というのは上から光がさしている、神の光、叡智の光を表します。旁(つくり)の方は、「収穫を積み重ねた」という文字です。農家では俵を積み上げるという文字です。この二つの言葉を合わせると、「福」とは、神様の前で積み上げられたものを表します。

 言葉は、その意味を知ると面白いものですね。

 「幸」は、俗っぽい言い方をすれば「ラッキー!!」ということでしょうかね。目指すは「福」の方ですね。「ラッキー」も実力のうちですから、ラッキーをうまく利用して、神様の前に俵を積み上げることが大事ですね。

2012年6月11日月曜日

物知りについて

「物知りは、人間の本質的価値に何ものを加えるものではない。いわんや、物知りを自慢するなどと言うのは、これくらい他愛もないことはない」

 ある書物の中に出てきた言葉です。あくまでも拾ってきた言葉ですよ。

 その本の作者は、クイズ番組を酷評しています。人間と知性の遊戯と言い、退屈まぎれの時間つぶしと、ずいぶんとまあ、すごい表現をしていました。

 確かに、今テレビでは、知性を競うような番組が多いですね。クイズ番組でも、昔のものとはちょっと違って、常識問題などもあったり、学閥争いをしていたりと、 物知りを競うものが多いです。

 テレビの流行は世相を反映するとは言いますが、これは、今の世の中の、何を映し出しているのでしょうか。

 一時は、細木数子さんや江原啓之さんの番組が多かった時代もありました。その時の時代が求めていたのがスピリチュアル系だったのでしょうか。喫茶店で、前世の話をしても平気になったのもテレビのおかげですよね。

 物を知っていても、それをうまく生かせないとなにもなりません。実社会で活用してこそ知識は生きてきます。

 学生時代は、古典も数学も物理も歴史も、すべて必要です。 学校は勉強の仕方を学ぶところで、社会人になってからたくさん勉強することがあり、その時にどうやって勉強したらいいかわからないことが不幸だと、ある人が言っていましたが、よくわかりますね。

 物を知っているだけが良いことではないですからね。

 まあ、前述の、ある作者のように、クイズ番組を、そこまでコケにすることもないでしょうが、テレビ番組も、製作費がないので、番組作りには苦労しているのでしょうね。

2012年6月9日土曜日

四十・五十にもなって・・・

安岡正篤翁の言葉で「四十・五十にして聞こゆるなきは畏るるに足らざるのみ」というのがあります。思わず笑ってしまった言葉です。

  世間的に地位や名声がなくても、自分の環境の中で、あるいは自分を取り巻く小さな世界の中だけでも構わないので、そこで、自分の名が聞こえてこないようではだめでと言うことだそうです。おるのかおらぬのかさっぱりわからないような存在ではだめですよと言っています。

  少しできた人間なら、世間はともかくとして、少なくともその仲間環境の中には必ず聞こえてくるものだと説明しています。面白いですね。

  この言葉の後半の「畏るるに足らざるのみ」は、安岡翁が付け足した言葉のようです。

  名を天下にはせる欲望はなくてもいいが、せめて、親戚・縁者の中だけでもいいから、名を知られる、一目置かれる存在であるべきだということでしょう。「いいおじさん」と言う表現で評価されてもいいそうですよ。

  こうも書いています。

  大小問わず、どこかでやっぱり聞こえなければ、四十・五十になった値打ちがない。


  いい年をして、家に帰っても女房・子どもから嫌がられる、そんなことでは人間はダメである・・・

  はたして自分自身はどうでしょうか・・・頑張ろう・・・

2012年6月6日水曜日

「独」は絶対

京都清水寺の漢字一文字ではないですが、「独」いう文字は、私たちが持つイメージとは違う意味があるそうです。

 「独」からの連想は孤独と言うもので、人から離れた寂しさを彷彿させる感じですが、実はこれには「絶対」と言う意味があるそうです。

 「独立」と言う言葉は日常、よく使います。 これの本当の意味は、何ら人に依存せず、自分自身が絶対的に立つということだそうです。一人暮らしをしていても、経済的援助を親からもらっていればそれは独立ではありません。それは当たり前ですね。

 会社から独立と言うのは自営になることですが、これも会社に制度依存しないで、自ら自分の制度を作り、自分で営業も経理も何もかも行うことですから、それは孤独とは意味合いが違いますね。

 「孤独」はひとりぼっちと言う気味ですが、絶対的に一人と言うことでしょうかね。こちらはやはり悲哀めいたものを感じますね。

 自分自身にどれだけ自信を持てるのでしょうか。「独」と胸張れることってあるのでしょうか。真の独立を目指したいですね。

2012年6月5日火曜日

人を観るには5つの要素があるそうですよ

人を見る5つの要点があるそうです

 1,まさに見た目、容姿・・・容姿姿態
 2,言動そのもの・・・言動動作
 3,身に着けているもの・・・衣服服飾
 4,気品や精神・・・気韻聖霊(きいんせいれい)
 5,人間としての格、度量の広さ・・・風度温籍(ふうどうんしゃ)

 この中で、最も核となるものは4番目の「気韻聖霊」だそうです。

 1~3は、形而上の問題です。つまりは「うわべ」です。いくらでも装えるというものと解釈しているようです。つまり、人間の本質ではないということなのでしょう。

 5番目は、心を鍛えた結果、自然と生まれるものです。

 となると、すべての根源である4番目が一番重要と言うことになります。人を観る(見るのではなく観る)には、その人の魂を観ることになるのでしょう。

 何やらスピリチュアルな話になりましたが、その人の心根、奥底にあるものを見抜く力が必要であるということなのでしょう。それがよく言う「いざという時に人は本性を表す」のとおり、何かの拍子に見える時を逃さないようにするのでしょうかね。

 人の魂を観る・・・人を見極めなくてもいいですが、自分がどう見られているかに考え方を変えた方がいいですね。つまり、これらの教訓は、人を見定めるためにあるのではなく、自分を鍛える心構えとして捉えるべきものなのでしょう。

 気品や精神、生まれつきなものと言う考え方もありますが、生きていく中で出会う難局に対する接し方で、いくらでも鍛えられます。日々の心構えで変わります。物事に対する考え方で変わります。

 特に、嫌なことがあったり嫌なことをされたりした時の、自分の振る舞いや考え方を変えるだけで人は変わります。 心を怒りに直結させるのではなく、一呼吸おいてみると、受け流すこともできるかもしれません。

 と言うことで、自分の魂を磨きましょう。いざと言う時に、自分の本性が出ても構わないようにしておきましょうね。ドキッ!!

2012年6月2日土曜日

守・破・離

守・破・離
武道、茶道などの道において用いられる言葉です。

「守」とは「学び」の段階です。師の教えを、正確かつ忠実に守り、精進します。物事の基本の作法・礼法・技法を身に着けることです。

「破」とは 「創造」の段階です。今まで学んできたことを受け、他の流派などを研究し、それぞれの利点を自分のものとし、自分の特性に合うようにアレンジしていくことです。基礎の上の破壊から生まれる創造です。

「離」とは「確立」の段階です。自己の研究の集大成とでもいうもので、おのずから一つの形、新機軸を開いて、独自の新しいものを生み出し、何物にもとらわれない境地に到達することです。

これらはすべての「道」に通じる教えで、人間として生きる道にもつながります。それは、経営においても同じことです。基本を学び、自らの特性に合うようにアレンジし、ぶれない確固たるものを作り上げることです。

まさに、自己発展の道が「守・破・離」です。 

師の教えられたままを実行するだけでは師を超えることはできません。「活人剣抜刀道」にはこうあります。

武道の世界では、古武道からはじめて古武道の中にとどまっていては後継者の存在価値はない。師をしのぎ、伝統を越え、親を超越して、より高い次元に発展成長してこそ文明の進歩である。

 なるほどね。またまたいい言葉発見です。

私が革新と言う言葉が大好きです。でも伝統と言う基礎の上に立って初めて革新があるのですね。

いわゆる「できる人」と言われている人は、自然とこれらを実行しているのでしょうね。

2012年6月1日金曜日

20秒間の勇気

マッド・デイモン主演の「幸せへのキセキ」という映画の予告編をたまたま見ました。落ちぶれた動物園を、家族とともに、仲間たちともに復興していくのですが、数々の困難が立ちはだかるなか、マッド・デイモンが子供に向けていう言葉に

 「20秒間の勇気を持とう」「そうすれば素晴らしいことが起きる」

 というのを発見しました。当然セリフは英語ですから、日本語吹き替えの字幕ですが、すごく感動しました。なんかグッとくるものがありました。たったそのセリフだけですが、思わず涙が出そうになってしまいました。心に響きましたね。

 「偶然は必然」と言いますが、きっとこのシーンを見ろと、神様がおっしゃっていただいたのかもしれません。

 ずっと頑張るのはしんどいです。体力も気力も持ちません。でも、ここという時に、ほんの一種運でもいいから勇気を振り絞れば、未来が切り開けることもあるのですね。それを人は奇跡と言うのでしょうが、奇跡は、ほんの小さな一歩から、自らが生み出しているものなのでしょう。

 「奇跡は起きるものではなく起こすもの」

 これも誰かのセリフでした。奇跡は自らが呼ぶものですね。いや~いい話やね~

 先ほどのマッド・デイモンのセリフですが、「20秒間」というのがいいですね。この数字はどこから来たのでしょう。そんなことはどうでもいいか・・・

 ほんの少しの勇気は、頑張ればだれでも持つことはできます。そのあとのことはなるがままに任せるしかないと腹をくくりましょうか。

 まずは、勇気を持ちましょう!!